ご家族の病気を機に、バリバリのビジネスマンからヒプノセラピーの道へ。ヒプノセラピーの最先端アメリカで学び、日本市場にあわせて「人格移動」など数多くの技法を独自に開発。日本におけるヒプノセラピーの第一人者として名高い、村井啓一先生がJBCHに託した思いとは。
創刊号特集
JBCH代表理事 村井啓一インタビュー
JBCH会報誌『News Hypno』創刊にあたり、JBCHの創設者であり、JBCHの創設者である村井啓一代表理事へのインタビューをおこないました。村井先生をすでによくご存知の方にも、これまで直接お話しする機会のなかった方にも、村井先生の人柄や考えに改めて触れていただき、村井先生がヒプノセラピーを志したきっかけやJBCH創設にかけた思いを、会員の皆さまに感じていただければと思います。
(インタビュアー: 綿引千恵)
<村井 啓一先生 プロフィール>
一般社団法人日本臨床ヒプノセラピスト協会 (Japan Board of Clinical Hypnotherapists)代表理事/認定マスター・インストラクター
米国催眠士協会 (National Guild of Hypnotists) 認定マスター・インストラクター兼日本代表
日本催眠学会(Japan Institute of Hypnosis) 理事
まず、村井先生の略歴を教えてください。
私は、大学卒業後に渡米し、アラスカ大学の大学院で英詩の創作を学びました。帰国後、広告代理店、外資系企業、IT企業等で広報宣伝の業務などにたずさわってきました。そのあと、40代後半でヒプノセラピーを学び、この道を20年以上歩んできました。
アラスカ時代小屋の前で星野道夫君と
もともとはバリバリのビジネスマンだったとうかがっていますが、ヒプノセラピーとの出会いは何がきっかけだったのでしょうか?
幼い頃、私は愛媛県で祖父母に育てられていました。小学校3年が終わった春休みに母が私を引き取りに現れ、私は事前の打診も了解もない状態で母に連れられて愛媛を離れ兵庫県の尼崎市に移り住みました。祖父母も友人もいない、言葉(方言)も異なる土地で、会ったばかりの母との母子家庭の暮らしが始まったのです。
それでストレスを感じたからか、吃るようになりました。悩んでいたある日、通学路にあった民家の壁に掛かっていたブリキの看板に、「催眠術で吃りを治そう」というようなことが書かれていたのです。「催眠術か・・・。スパーンと簡単に治ったらいいな。でも母ちゃんにはこんなこと言えないな」と、考えたことがありました。「催眠」というものを初めて意識したのは、このときでした。
高校や大学時代にも、催眠の本を読んでいました。日本では明治時代に催眠が流行りましたが、おそらくその当時に教えていた人たちから学んだ人が書いたのでしょう。「ヒプノセラピー」というよりも「催眠術」の本でしたが、エンターテインメントと癒しの区別がなく、「催眠の可能性」について書いてあったので、面白そうだ、不思議だ、なんで治っちゃうんだろう、などと考えていました。これは私の中で植え込みになったと思います。
今の道へとつながるヒプノセラピーと出会ったのは、かなり後になってからです。きっかけは、家族の病気でした。当時アスクルという会社で、人事・総務・広報を管轄して東証上場前から上場直後の社内体制の構築を担当していた私は目が回るほど忙しく、睡眠時間が毎晩2・3時間ほどの生活が続きました。お正月に体が動かなくなったことがあり、脳がおかしくなったのかと思い医者にかかりましたが、過労だと言われました。「あなた、このままだと死ぬよ」と医者に言われて、そのときは休みましたが、お正月が終わったらまた忙しいペースに舞い戻るという状態でした。
そのうちに、家族全員に異変が起きていました。よくよく考えると、満足に家族との時間を取ったことがなかったと気づきました。私は、夜遅く、というよりも明け方に帰ってきて、朝早く出ていくという生活だったので、ずっと家族と会っていなかったのです。
人とのコミュニケーションを円滑に行う仕事をしている自分が、家族とのコミュニケーションができていないということを思い知らされました。母親がアルツハイマーで、妻も精神的にダウン、娘も原因不明の病気、という状態でした。
当時の私は、ヒプノも何も知らず、寄り添いというのもよくわかっていませんでした。先ほどもお話ししたように、私は小さいときに、母親とも父親とも暮らしたことがありませんでした。母親とは、小学校4年から一緒に暮らし始めましたけれど、小さいときに親子一緒に暮らしていなかったので、「家庭」というものを知りませんでした。だから、「家族」という概念、「家族を守っていく」、「家族を育てる」という意識がなかったのです。それがこの状況を作ってしまったのだと思いました。
今思えば、家庭内コミュニケーションも、自分の中のコミュニケーションもできていませんでした。
当時の自分は、どうしていいかわからない、どうしようもないから、自分で学びながら埋めていくしかないと思ったのです。具合が悪くなった家族を見て、「どうするか?」と考えたときに、私が家族のために唯一できることは、そばにいることだと思いました。そばにいる、暮らしを共にする。そのために、仕事を辞めて1年間、家族のそばにいようと決意しました。そうして、仕事を辞めて家族と時間を過ごし始めたら、一緒にいるだけで、みんな改善していったのです。それは不思議なことのように思えました。
でも、やっぱりそばにいるだけでは物足りず、何か自分の力でできることを求めて、いわゆる「癒しの技法」として、何らかのセラピーを学びたくなったのです。何を学べばいいのだろうかと考え、インターネットで調べると、「ヒプノセラピー」が出てきました。「そうか、催眠には昔興味があったなぁ。ちょっと勉強してみよう」と思いました。
コダック時代 ケルン大聖堂の前
ご家族を思うお気持ちでヒプノセラピーの学びを始められたのですね。どのように勉強されたのでしょうか?
当時日本で催眠療法を教えていた民間団体の講習を受けに行きました。今考えたら、かなり単純な内容だったと思いますけれども、顕在意識と潜在意識についていろいろ教えてくれました。それが面白くて、もっと深く学びたいと思ったのです。
催眠の研究はアメリカが一番進んでいるということだったので、アメリカへ勉強しに行こうと思い、調べていくつかの催眠団体で学びその団体のメンバーになりました。アメリカだと、NGH(National Guild of Hypnotists)、ABH(The American Board of Hypnotherapy)、IARRT(International Association for Regression and Therapies)やAAPH(American Association of Professional Hypnotherapists)、IHF(International Hypnosis Federation)ですね。NGHの年次総会で出会ったアメリカのセラピスト達からも多くのことを学びました。それから、イギリスの団体HCB(Hypnotherapy Control Board)にも昔入っていました。今はなくなった団体(AAPH、IARRT、HCB)や退会した団体(ABH、IHF)が多いのですが、一番歴史が古く極めて良心的なNGHには今でも所属しており、その日本代表を務めています。
私はアメリカからたくさん学んだのですが、ヒプノを学んで2年目位から “Many Lives, Many Masters” (邦題『前世療法』)を書かれた、前世療法の世界的権威である精神科医ブライアン・ワイス先生の講習を受けに行きました。ワイス先生の人間性に惹かれ、それ以来、毎年ずっとワイス先生の講習を受けに訪米するか、ワイス先生を日本にお呼びするという関係を続けてきました。残念ながらこの2年はコロナの影響でできていませんが、それまでは毎年、時には年に2回、講習を受けに行ったりしてワイス先生とのつながりを持ってきました。
私は、色々な勉強をしながら、アメリカにはアメリカの事情が、イギリスにはイギリスの事情があるというように、各国の事情や法律があり、ヒプノセラピストができることが各国で違うということがわかりました。勉強を進めるうちに、日本の事情もアメリカの事情もわかってきました。
日本からの参加者とOMEGAでも夜に勉強会
OMEGAでワイス博士と日本からの参加者で記念写真
そのようにヒプノセラピーの学びを深めていかれたということですが、ご家族には実際にセッションをされたのでしょうか?
ヒプノセラピーを家族に使いたいと思って学びを深めていったのですが、家族にも使える方法と使えない方法があるということが後からわかりました。単純にリラックスさせたり、求める暗示を植え込んでいったりというような暗示療法であれば問題なくできるでしょうが、過去の記憶を探っていく年齢退行療法などでは、セラピーを行うセラピスト自身が、セラピーを受けるクライアント(家族)が抱える問題を与えた張本人なのかもしれませんし、あまりプライベートなことを知ってしまうと以降の家族関係に支障をきたす恐れがあるのです。家族に使うのは難しいとわかったのです。
それでも、自分がヒプノセラピーをやっていくうちに、ますます興味を持ったのです。ヒプノセラピーとは、結局のところコミュニケーションだと思います。そして、学んでいるうちに、私は小さいときからずっとコミュニケーションで苦労してきたということがよくわかりました。
小学校の頃から吃りだったので、吃らない言葉で言い換えるために辞書を読んでたくさんの言葉を学びました。そして、先生から、宮沢賢治の詩を教えてもらい、文学を知り、アルチュール・ランボーなどフランス語の詩や、T・S・エリオットなど英語の詩に興味を持ち、それで自分も詩を書きたいと思うようになったのです。ずっと言葉によるコミュニケーションを模索していたのです。
アラスカ大学での詩の朗読会1982年
せっかくなので、ヒプノセラピーの道に進まれる前の村井先生の人生についてもお聞かせください。
同志社大学の英文科で英文学を専攻しましたが、大学の美術部に入って、絵を描きながら、同人誌を作って詩を書いていました。かつて、京都の今出川通りにあった『ほんやら洞』という喫茶店の2階のホールで開催されていた詩の朗読会によく参加していました。あるとき、そこでアメリカの詩人ケネス・レクスロス氏と出会いました。
そして私の英語で書いた詩を読んでくれて、「君、アメリカで真剣に勉強したらどうだ。サンタバーバラに住んでいるから、アメリカに来たら訪ねてきなさい」と言ってくれました。それを真に受けて行ったのです。大学を卒業して、2年半くらい仕事をしてから行ったので時間はかかりましたが。会いに行くと、もう晩年近くのケネスは「時間がない、もう時間が残されていないのだよ」と口癖のように呟いていました。申し訳なくなって2泊させてもらってからお暇しました。
その後デンバーに行って、英語の勉強をし、大学院の試験を受けて、最終的にアラスカの大学院を選びました。なぜアラスカ大学を選んだかと言うと、そこの学部長から「詩人にとってアラスカは理想の地です。アラスカの自然があなたを詩人にしてくれるでしょう」という手紙をもらったからです。学費も安かったですしね。そうして、アラスカで20代後半の約5年間を過ごしました。そこで、写真家の星野道夫君とも出会いました。
デナリ自然公園でムースのツノ発見(撮影:星野道夫)
現地ではアラスカ先住民(エスキモーやインディアンたち)と交流するのも英語でしたが、彼(女)らにとっても英語は第二外国語なので、お互いに身振り手振りで顔を見ながらコミュニケーションをしました。そうしたことも大切な経験でした。大学でアサバスカン・インディアンの言語を学んだり、エスキモーの家族を訪問して一緒に過ごしたり、アザラシ猟に連れていってもらったり、夏の間サーモン漁をして過ごしたりと、得難い経験ができたアラスカ時代でした。
約5年間の滞在で創作科の修士号(Master of Fine Arts)を取得して帰国しましたが、詩では「メシが食えない」ので英文のコピーライターとして大阪の広告代理店で働き始めました。そこで広報宣伝の仕事を覚えました。そのあと、東京に移り、外資系企業(スクイブ、コダック、デル)で広報宣伝関連の業務にたずさわってきました。最後に務めたアスクルは、岩田彰一郎社長(当時)の理念に惹かれて入社を決め、管理部門(人事・総務・広報)担当の取締役として働きました。本当に人のことを親身に考える、人間性を考える会社で、理念と実体が合致していたのです。身体にとってはハードでしたが、心が喜ぶ会社でした。岩田さんには今でも感謝しています。
アラスカ時代 サーモン漁のテントの中
アラスカ時代 現地の小学生に兜の作り方を指導中
その後退職されて、ヒプノセラピーの道を極めていかれたのですね。
そうです。ヒプノセラピーを本格的に極めていこうと思ったのは、効果を自分で確認できたからでした。すごい癒しの効果があるとわかりました。それに、まだ日本でこの分野をやっている人が少ないということも極めたいと思った要因のひとつです。そもそも、誤解のある分野でしたし、だからこそ、参入する人が少なかったのでしょうね。
私自身については、インドに行った経験がありますが、そこで科学で割り切れないことがこの世にたくさんあるという現実を思い知らされました。そうしたことも、いろいろなことを理解する助けになっているでしょうね。
もともと私は、自分の中で科学を追求する意識が強かったのですが、現代科学では解明できないことがあるということがわかりました。スピリチュアル的なものを否定してはいけないと思ったのです。
自分の役割はなんだろうと、人間存在について考えたとき、理性を考えたとき、理解できる分野と理解できない未知の分野があります。昔の人は、死とか未知のことを怖がりましたね。
私は、ヒプノセラピーを学んで、死が怖くなくなりました。前世療法を通して、また生まれ変わるという体験をした結果、本当に生まれ変わりがあるかないかの科学的な検証など、現代科学ではできないということもわかりました。しかし、生まれ変わりがあろうがなかろうが、死の不安は消えたのです。ヒプノセラピーは、そういった不安を消してくれる効果があると実感できました。
また2000年あたりから脳科学が発達して、長期記憶のメカニズムが解明されてきました。年齢退行療法として19世紀後半にピエール・ジャネが使った長期記憶の書き換えによって、なぜ人が癒やされるのかがわかってきたのです。この科学の発達もヒプノセラピーの効果に対する確信を私に与えてくれました。
サイババのアシュラム(インド)にて
ヒプノセラピーの道に進むとなったとき、周りの反応はいかがでしたか?
前から私を知っている人たちには驚かれましたね、「村井さん、どうしたんですか?!」って。意味がわからないのですが、「借金ですか?!」と言われたこともありました(笑)。
最初は広尾1丁目のマンションの一室で開業しました。家族は「何をやってもいい」と見守ってくれました。そのおかげもあって、ヒプノの道は順調に進みました。最初の2年は赤字でしたが、3年目以降は黒字になりました。
ヒプノセラピースクール開校のお話を聞かせてください。
もともと、アメリカで学んだことを、セラピーで使ったり教えたりするのに、日本でどのように広めていこうかということも考えていました。
はじめは、2-3人が入ったらいっぱいになるくらいのマンションの部屋で教えることをスタートしました。当時は、セラピストを養成するための学校というよりも、セッションを受けて癒やされて、自分も学びたいという方に教えていました。自分が癒やされた原理・原則は何だろう、できれば自分も同じように人の癒しのお手伝いをしてみたいと思った方が多かったようです。
教材は、所属していた団体の教材と、本を読んで、私自身が大事だと思う内容をピックアップして教えていました。私が海外で学んだ様々な内容のいいとこ取りをしながら、日本人にとってわかりやすい内容に変えていきました。その内容で数年教えたあと、本格的に作り替えました。
ヒプノセラピーも提供し、スクールも開校するうちに、近くのより広いスペースの3階建てのテラスハウスに移りました。そこはもとX JAPANのYOSHIKIさんの事務所でした。そこにはセッションルームも3部屋あったので、私の教え子のセラピスト3-4人に手伝ってもらってセラピーを提供していました。
ただし、最初の頃は、部屋を借りることも難しかったのです。「催眠」ということで、なかなかOKが出なくて。「催眠なんて怪しい」とか、「受けに来るのも変な人たちなんじゃないか」とか、偏見がありましたね。今でも誤解や偏見があるので、部屋を借りるのは難しいかもしれません。
少し戻りますが、村井先生がアメリカでヒプノセラピーを学ばれたとき、すでに脳科学をふまえた内容が教えられていたのでしょうか?
私がヒプノセラピーを学んだとき、脳科学のかけらもなく、意識・無意識論がベースのヒプノセラピーでした。脳科学は自分で論文を探して、脳科学的なヒプノセラピーの技術を独学で学んでいきました。
当時の日本には、ちゃんと脳科学に基づくヒプノセラピーができるという人はまだいなかったと思います。意識・無意識論に基づくヒプノセラピーを、教えられたことをただ教える、という感じでしたが、それでは足りないとわかり、自分で勉強しました。脳科学の本を読み、いろんな方の方法論を学び、そこから自分なりに考えて、工夫しながら、「こういう方法を使えないか?」、「こういうことをやったらどうか?」と考えていったのです。そして実際に練習で使ってみて「あぁうまくいった」と。
今度はそれを「なぜうまくいったのか?」、「脳科学的にどういうことだったのか?」ということをもう一回検証していきました。自分の想定・推測でやったことがなぜうまくいったのかということを、あとから脳科学の論文で理解できたこともありました。
さらに、私の中で脳科学の方法論が大きく発達したのは、やはり「記憶の再固定化」についてわかったときでした。井ノ口馨先生の「海馬の記憶を再固定化する」という論文を読んで、「あぁこれだな」と。そういうのを初めて知って、そこから脳科学的な切り口でヒプノセラピーを定義していこう、作ろうと、今までの意識・無意識論的なことから、脳科学的な考え方、記憶をメインにした「脳科学に基づく催眠療法」に切り替えていったのです。
会員の皆さんもすでに学んでいらっしゃる大脳と小脳の長期記憶の仕組み、つまり、記憶の書き換え、記憶の再固定化、そのときに記憶保持用タンパクが出るというメカニズムを知ったことが、私の研究においても大きかったです。それ以来、この記憶の仕組みをどう活用して癒しに使えるかを考えてきました。
これは当時に限らず今でも、アメリカの民間のヒプノセラピストたちには教えられていません。彼(女)らは、暗示療法とイメージワークを中心とした施術しかできませんので、記憶を書き換えたりする方法は心理療法をしっかりと学んだ公的な有資格者にのみ許される方法論なのです。
またアメリカでは、心理療法家でさえも、記憶の書き換えをしっかり扱える人はまだ少ないと思います。知識のある人もまだ少ないと思いますね。しかし、ソマティックセラピー的な研究をされている方は詳しいかもしれません。
村井先生の代表作『前世療法』と『悲嘆療法』
村井先生が開発されたヒプノセラピーの技法がたくさんありますが。
そうですね、私が作り上げて行ったものはいくつかあります。例えば、人格移動、包み込まれ法、悲嘆療法などです。しかし、私がポンと1から作り上げたわけではなく、すでにあったものの延長であり、先人が創意工夫されて作られたモノの上に作り上げたものです。
私自身、癒やしの方法論としての脳科学がわかり、メカニズムがわかってくると、「もっとこうしてみることもできる」と試す、実際にやってみる、そして使えるとわかる、という流れでした。実際に使わないとわかりませんからね。
人格移動は、ゲシュタルト療法のエンプティチェアやNLPでのポジションチェンジと似たような形を取りますが、似て非なるものです。エンプティチェアにはフロイトの投影理論を用いた分析など、それなりの理論があります。催眠状態で頭の中で向き合っている相手の中に入ると、脳内の稼働部位が瞬時に入れ替わり、相手の声で語り出したり、思ってもいない内容が語られたりします。
例えば、催眠に入らずにこれを行うと、クライアントは自分のお母さんになった「つもり」で「考えて」語りますね。交流するうちにお母さんの気持ちがわかってくるつもりにはなれます。心理療法の一環で、催眠に入れずにやるので、どうしても「お母さんになったつもり」として理性で考えます。
コミュニケーションをするとき、通常のカウンセラーは一方向のコミュニケーションしかできません。つまり、お母さんとの問題があるクライアントの場合、「たぶんこう思っていると思う」の連続で、最終的には介入するしかなくなります。「そうじゃないと思うよ」、「お母さん、こんな気持ちで言っているかもしれないよ」というように、癒しを導いていると言えます。セラピストの介入が前提になるということは、説得しないといけません。そうするとなかなか癒やしきれません。
一方で、催眠状態で人格移動をすると、お母さんの中に本当に入ってしまう感覚を味わいます。体験した人ならわかりますが、声が変わるのです。お母さんが語る。それを聞いている自分がいて、お母さんが語る内容に自分が驚く。
これを理性で自分の頭で考えたら、そういうことは起こりえません。自分で考えて自分で言うと「たぶん、お母さんはこういうことを言うだろうな」と。そしてそれを言う。だから驚かないし、自分の頭で考えて理路整然と語ります。
しかし、それでは癒やされません。お母さんの言った言葉に意外性があったり、「え!?」という驚きがあったり、「そうだったんだ!」という気づきがあるからこそ癒やされるのです。
人格移動で、お母さんの中に入ったら、お母さんが語ってくれます。催眠状態で別々の人間が、言葉のキャッチボールをする中で自然と癒やされていくのです。自分で理解して自分で癒やされていくのです。人格移動の経験がなければ、「こんなことできるの?」と誰でも驚くでしょうが、やってみると強力な効果がある技法だということがわかります。
JBCHを創設するきっかけはどういうものでしたか?
実は、私自身、「催眠は怪しい世界でもある」と思っていました。まあ、今もありますけれど、人を欺いて利益を追求するような、インチキをやっている人が結構いる世界です。それはヒプノセラピーの世界も例外ではありません。
例えば、2013年にヒプノセラピーを全く学んだことのない素人にヒプノセラピーを2日間教えてヒプノセラピストの認定証を出す、その1ヶ月後にインストラクター養成講座を学ばせてインストラクターの資格認定証を出す、さらにその1ヶ月後にアメリカからスカイプでマスターインストラクター養成講座を教えてマスターインストラクターの資格認定証を出す、ということを日本でおこなったアメリカの催眠団体がありました。それはつまり、ヒプノセラピーの経験がない全くの素人が、2ヶ月後にはインストラクターを養成するマスターインストラクターになってしまうということです。
資格だけが欲しい人には好都合な話でしょうが、本当に実力をつけたい人には意味がないですし、無責任極まりない行為です。こうした資格商法を、その催眠団体のトップと私のかつての教え子が手を組んでやってしまいました。これは私にとってはかなりショックでした。私もその団体のマスターインストラクターでした。日本で名前の通った催眠団体でもこういうことをやってしまうのかと、ヒプノセラピーの世界の現実を突きつけられた気がしました。
ちなみに、それは日本でしか行われなかったことです。日本人は文句を言いませんので。アメリカで同じことが行われたら、訴訟になるかもしれません。本来、その催眠団体でインストラクターになるには、ヒプノセラピストとして少なくとも1年の経験があることが最低の条件でした。またマスターインストラクターについては、インストラクターとしての教える技術や充分な経験に加えて、インストラクターを教えられるだけの実力と人間性があって初めて、本部から勧められるというもので、その講座に参加するには15冊の原書を読んでから受けるということが必要でした。もともとあったルールを団体のトップ自らが破って「ビジネス」をしたのです。
私はこのトップに意見をしましたが、返事は来ませんでした。最終的に私はこの団体から脱会しました。
この出来事は、私が一般社団法人日本臨床ヒプノセラピスト協会(JBCH)を創る強い動機になりました。元々別名の催眠団体を立ち上げてはいましたが、早くちゃんとした催眠団体を作って、ヒプノセラピストが安心して活動できるような環境を構築したいとの思いで創設しました。ヒプノセラピストとして、あるいは、ヒプノを学び興味を持つ方が、お互いに助け合ったり、理解し合ったり、協力し合うことができる協会にしたいと考えています。
Omega Instituteにて(撮影・石原均)
村井先生から見た、JBCHの強みとは何でしょう?
脳科学に基づいた内容を教えていることです。かつてのように、意識・無意識をベースにセッションしようとすると、やはり無理があると思います。「意識って何?無意識って何?」セラピストもよくわからないから、説明できないでしょう。でも、記憶のメカニズムを使えば、理解が深まります。用いる方法論も脳科学に基づいた方法論なので、癒しの精度が上がっていきます。だからセラピストとしての自信もつくし、セッションを受ける方も「この人はできる」と認めてくれるのです。
ちゃんとした内容を学んでいない人は、もう上から目線で自分の価値観を植え込んだり、「あなたはまだ魂の成長ができていないからできないのだ」とクライアントさんに責任をなすりつけたりします。「この方法でできなかった人は今までいない、あなたがおかしい」と。実際にそういうことを言われた人がいました。そういう、してはいけないことをして、クライアントさんを傷つけるセラピストになってはいけません。
最初、時間はかかるかもしれませんが、しっかりと学ぶ、真似ぶことで、そのうちに、だんだんとうまくなっていきます。本当に癒しのレベルが上がり、クライアントさんは自然に癒やされていきますから。
ヒプノセラピストが潜在意識に見事につながって自分を磨き続ければ、ミルトン・エリクソンのように、ただもう存在するだけで癒やされてしまうくらいの「癒しの権化」になるでしょう。存在の在り方 « Way of Being » が大事です。
村井先生ほどの経験は私にはまだありませんが、私も教えていただいたことを忠実にやるだけでセッションが成功しています。
そうですね。当然のことながら、ヒプノセラピストは技術を身につけなくてはなりません。それができたら、あとは、セラピストの存在です。どんな存在であるか。自分自身の生きざまであり、存在の在り方が大切だと思います。私は、セラピストは誠実で愛に満ちた存在であるべきだと考えます。敬愛するブライアン・ワイス先生はよく”Love, Compassion. And Kindness (愛と思いやりと優しさ)”と語っておられますが、ワイス先生にお会いすると、「存在が人を癒やす」という言葉の意味がよくわかります。
ワイス先生ご夫妻 新幹線車中
最後に、会員の皆さまへ、メッセージをお願いします。
ヒプノセラピストにとって価値があり、ヒプノに興味を持って勉強した人がJBCHの会員でいることでメリットを享受できる催眠団体でなければ意味がありません。形だけを作るのではなく、ヒプノセラピストにとって本当に役立つ団体にしていきます。
今はZoomでも勉強会・練習会を開催しているので、遠方の方にもぜひ参加していただきたいと思います。そして、今の状況が落ち着いたら、私も全国あちこちに出向きたいと思います。Zoomでお会いした方たちに、実際にお会いできることを楽しみにしています。
村井先生、価値ある貴重なご経験についてお話しいただきありがとうございました!